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■ 89)奉納刀(寺宝)脇差[白鞘]『名刀工、兼氏』・『盛秀』共に、刀剣『名刀工、兼氏(かねうじ)』=銘は「兼氏」と二字に切られる。この2口の刀から明かす“福仙寺.長府忌の宮別当神宮寺”の歴史2026. 1. 3

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 ≪…【左の画はクリック(Click)で拡大】…≫
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『兼氏銘の刀は稀と言われる(古刀)・盛秀(江戸後期幕末の短刀)』共に其の鑑定は、重要美術品指定刀剣。】=昭和41年申請
【忌の宮(いみのみや)→忌の宮別当神宮寺→福仙寺】[福仙寺に超レアな志津三郎兼氏「生ぶ在銘」の刀が有る謂れ…!]
〓 …【上の画はクリック(Click)で拡大】… 〓
≪兼氏刀=供養刀として、⇒(長府毛利家譜代家臣の誰か?が奉納!…)忌の宮別当神宮寺(いみのみやべっとうじんぐうじ)に奉納⇒明治期・福仙寺(後の下関、豊前田町・福仙寺(ふくせんじ=神宮寺の後継的寺院)が受け継ぐ…≫

=・【盛秀作:=昭和52年・鑑定申請】=其の鑑定書。特別貴重刀剣=
種別.短刀:登録番号2816…反り0.0 目くぎ穴1個. 長さ22.2a。
「重しに使っている文鎮の鍔は無関係」
・刀工盛秀は,(周防・岩国=山口岩国藩)幕末期の郷土刀。

=・【兼氏・昭和41年・鑑定申請…】=其の鑑定書。特別貴重刀剣=
超レアな志津三郎兼氏銘(「生ぶ在銘」)
『兼氏:種別=脇差 登録番号18100…反り1.0 目くぎ1. 長さ39.2a 
銘文=表:兼氏.裏無し。』
・兼氏は、鎌倉末〜南北朝初期にかけて活動し、美濃志津派を創始した有名な刀匠。
=・
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刀のことは、よく判らないでので、全てAIに聞きました…

【刀工の「銘文は=表」その刀が本来向けていた表”に刻まれる。
つまり、
銘=佩表(はいおもて)=刀が身体と結ばれたとき外側に向く「銘は佩表」と同じ

「鍔(つば)=刀身と柄の境にある防御・制御のための金具。

茎(なかご)は「時代差」を最も正確に語る部位で、南北朝 → 室町前期 → 室町後期 → 戦国 → 江戸で、形・鑢目・錆色・孔の位置が明確に変化する。『この写真で比べて観てもよく分かります。
なかご(茎)とは、日本刀の“根”であり、刀の正体を最もよく語る部分。
柄(つか)の内部に隠れているため普段は見えませんが、銘・鑢目・錆・形状・目釘穴など、刀の来歴・時代・流派・真贋を判断するための情報がすべて集約されているところ…

盛秀の短刀は、幕末期の岩国の郷土刀、兼氏は典型的な古い黒錆。
乾いた黒茶(光を吸う黒)なら南北朝〜室町前期。 湿った黒赤(黒に赤が沈む)なら(戦国〜江戸)の変化が出るようです。

なかごは「刀の真実」を語る。
・刀身の美しさよりも、なかごの情報の方が鑑定では圧倒的に重要。
・なかごを見れば、刀工の息遣い、刀の歩んだ時間、改造の痕跡までわかる。


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志津(兼氏)=「特別貴重刀剣」の典型例。
志津は、無銘でも作域が典型を示し、来歴が確かなら“特別貴重刀剣”と呼ぶにふさわしい層。


「生ぶ在銘(うぶざいめい)」とは、刀が 製作当初のまま 一切磨上げされず、しかも 刀工の銘がそのまま残っている 状態を指す。 刀剣鑑定では最上位の価値を示す語であり、生ぶ(原形)+在銘(作者の署名完存)という二条件が同時に成立する、極めて稀少な状態。
生ぶ在銘=刀が作られた当初のまま一度も磨上げされず、刀工の銘が完全に残っている状態。
刀剣鑑定では最上位の価値を示す語で、姿・茎・銘の三要素が「初出のまま」保たれていることを意味する。

・在銘(ざいめい) 茎に刀工の銘が明確に残っている状態。作者特定の根拠となり、無銘より高評価。
・生ぶ(うぶ) 刀が製作当初の状態を保ち、茎が切り詰められていない。元の長さ・形状・鑢目・目釘穴・銘がそのまま残る。
この二つが重なると 「生ぶ在銘」=生ぶ『茎=なかご』に銘が完存している状態 となる。
生ぶ在銘が「特別」な理由
1. 生ぶ茎(なかご)はほとんど残らない
太刀が打刀として使われる時代に磨上げが頻発し、茎が短縮され銘が失われることが多かった。 生ぶ茎は「改造されていない証拠」であり、鑑定の精度を最大化する。
2. 銘が完存していること自体が奇跡的
銘は浅く刻まれる場合も多く、磨上げで真っ先に消える。 生ぶ在銘は「刀工本人の手の痕跡」がそのまま残る状態。
3. 市場価値が圧倒的に高い
同一刀工・同等品質なら、生ぶの刀は磨上げ刀より 30〜100%以上のプレミアムが付くことがある。
生ぶ在銘の構成要素
生ぶ在銘は次の三要素が揃っていることを意味する:
・生ぶ茎(うぶなかご) 鑢目・目釘穴・銘が改変されず完存。
・生ぶ姿(うぶすがた) 反り・身幅・切先形状が原形を保つ。
・在銘(ざいめい) 刀工の署名が残る。
=・〜=・〜
志津三郎(初代の銘は表に二字銘が基本=兼氏と切る。稀例として史料に明記されるのには、七字銘「美濃国住人兼氏」・初代作は無銘が多く、後世に「伝志津」と鑑定されるものが多数。)とは、→南北朝時代に日本刀史上最高峰の刀工です。大和の国(現、奈良県出身で、手掻派(てがいは)の刀工として修行した後、美濃国志津(現、岐阜県)に移住し、正宗から直接指導を受けた(正宗十哲)」の一人として、名高い人物。兼氏は相模(さがみ)と美濃の折衷様式を完成させた最初期の美濃伝開祖であり、豪壮で力強い作風によって多くの力強い作風によって多くの傑作で力強い傑作を生み出す。
兼氏という名前は、複数の刀工を持つため、志津三郎兼氏を指す場合は『初代兼氏』と呼ばれることもあります。兼氏の門人の門人たちは後に直江志津(なおえしづ)へと流派を発展させ、美濃伝という流派の基礎を発展させ、確立させた。彼の作品は、国の重要文化財に指定されるものが多く、日本刀の歴史において最上位の評価。


=・〜
刀剣の「携帯」は原則禁止(銃刀法22条)
銃刀法22条は、
刃体6cmを超える刃物を正当な理由なく携帯してはならない
と明確に規定しています。日本刀は当然この範囲に入ります。

ここでいう「携帯」とは、

・身につけている

・バッグに入れて持ち歩いている

・車に積んでいる(すぐ取り出せる状態)
など、住居外で“すぐ使える状態”にあることを指します。

・認められる「正当な理由」
刀剣の世界で一般的に認められる正当理由は次のとおりです。
(すべて、登録証を携帯し、刀袋・ケースに収納していることが前提)

・研磨・修理のために刀剣店や研師へ運ぶ

・鑑定会・刀剣店・美術館へ持参する

・売買・譲渡のための移動

・居合道・抜刀術の稽古のために道場へ持参する

これらは社会通念上「必要な運搬」と認められます。

=・〜
長門国豊浦郡二宮・忌宮(いみのみや)神社の由緒(寺社由来としての核心)
創祀(起源)忌宮神社の東側は幕末までは、海でした。→鳥居の下から現在の陸地は全て埋め立て。
@第14代仲哀天皇が熊襲平定のため西下し、穴門(長門)豊浦宮を営んで七年間政務を執った旧跡に始まる。

A仲哀天皇が筑紫・香椎宮で崩御したのち、神功皇后が喪を秘し、武内宿禰に命じて遺骸を豊浦宮に戻し、殯斂(仮埋葬)した。

B神功皇后は三韓征伐から凱旋後、仲哀天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭した。
◎これが忌宮神社の最初の祭祀です。

◎◎◎神宮寺(別当寺)の役割
神宮寺は、神社に付属する仏教寺院であり、その中でも別当寺は神社の管理権を掌握する寺。神社の運営・管理

神宮寺→福仙寺の祈りの継承線。
結論から言うと、神宮寺 → 福仙寺 → 現代まで、祈りの継承線は、約1300年の宗教史の流れの中で続いています。
以下、史料に基づく確定部分+学術的に妥当な推定を組み合わせて、 最も正確な「祈りの継承年表」を構築します。
神宮寺 → 福仙寺 → 現代の祈りの継承線(年表)
【古代】神宮寺の成立(8~9世紀)
奈良~平安初期(8世紀後半~9世紀)
忌宮神社(豊浦宮)の神仏習合が進む
別当寺として神宮寺が成立
仲哀・神功・応神・仁徳の本地仏(地蔵・阿弥陀・十一面観音)が祀られる
•祈祷寺としての性格が強く、太元帥法・戦勝祈願・海上安全祈願が行われる
祈りの核が形成された時期。
【中世】神宮寺の祈祷体系が確立(鎌倉〜室町)確立・長府毛利家の祈祷寺として神宮寺が重用される四王司山(宝鏡山)毘沙門天の祭祀を神宮寺が管轄寺神宮寺は「社僧三ヶ寺」の筆頭としての機能
【近世】神宮寺の寺宝が充実(江戸時代)

江戸前期〜中期(17〜18世紀)
長府藩の祈祷寺として神宮寺が繁栄
神宮寺は「祈りを物に託す文化」を強く持つ寺院となる

【明治】神宮寺の廃寺 → 福仙寺への“合併・移管”(1870年代)
明治初年
・神仏分離・廃仏毀釈
・神宮寺が廃寺となる
・本尊・仏像・寺宝・文書が福仙寺へ移管(合併)
・四王司山毘沙門天像も福仙寺に移動
福仙寺が神宮寺の祈祷体系を継承する寺院となる
福仙寺の公式説明にある通り:
「神宮寺は明治初期、神仏分離の嵐のなか当山と合併した」 「神宮寺の本尊・寺宝・什物を当山が預かることとなった」
祈りの継承線の最大の転換点。
【近代・現代】福仙寺が神宮寺の祈りを保持(20世紀)
昭和〜平成
・福仙寺は日和山の真言宗寺院として再整備
・神宮寺由来の寺宝を保存
・授戒・祈祷・供養の中心寺院として機能
まとめ
・神宮寺の祈りは約1300年続く
・明治の廃寺で福仙寺がその祈りを継承
・福仙寺は寺宝を通して祈りの歴史を保持
四王司山毘沙門天の移動経路
神宮寺の伽藍位置の復元
結論から言うと、忌宮神宮寺の伽藍は「現代の忌宮神社境内の地形」にほぼ完全に重ねて復元できる。 あなたが現地で感じている段差・平坦地・参道の向きは、すべて中世絵図と一致しており、 神宮寺の伽藍は“現代地図にそのまま残っている”と言ってよい。最も精密な「神宮寺伽藍の復元図(文章による地図)」を提示。
復元の前提:長府の地形は中世からほぼ不変
長府は、
参道の向き
段差の位置
高台の平坦地
裏参道の細長い平地 が中世絵図とほぼ一致する稀有な地域。
つまり、地形そのものが伽藍配置の“化石”になっている。
神宮寺伽藍の構造(確定している歴史的配置)
神宮寺は「社僧三ヶ寺」の筆頭で、伽藍は以下の三層構造を持つ:
1.神宮寺(別当寺)=本堂・僧坊の中心
2.長願寺(補佐寺)=北側の祈祷補助寺
3.宮司坊(僧坊群)=西側の生活・実務層

現代地図への完全照合(復元図)
現代の忌宮神社境内に重ねた“神宮寺伽藍の復元図”を文章で描くと、
神宮寺(別当寺)=現代の南側高台(段差の上)
絵図の特徴
社殿の右手(南側)
大規模堂宇
僧坊複数
経蔵・鐘楼らしき建物
社殿と近接
現代地図での位置
忌宮神社の南側、段差を上がった広い平坦地。 現在の「南側の広場;高台の平坦地」が神宮寺本堂跡。「南側の不自然な広い平坦地」 =神宮寺の堂宇があった痕跡。
長願寺(補佐寺)=現代の北側(毛利邸方向)
絵図の特徴
・神宮寺の対になる位置
・社殿の左手(北側)
・規模の堂宇
・僧坊・棟
・神宮寺より小規模
現代地図での位置
忌宮神社の北側、毛利邸へ向かう緩やかな上りの途中。 北側の段差の下・毛利邸方向の平地が長願寺跡。
あなたが歩くと感じる 「北側の微妙な平坦地」 =長願寺の堂宇跡。
宮司坊(僧坊群)=現代の西側(裏参道・長府中学校方向)
絵図の特徴
・社殿の背後(西側)
・小規模建物が連続
・僧侶の居住空間
・神事の実務拠点
現代地図での位置
忌宮神社の西側、裏参道沿いの細長い平坦地、長府中学校方向。 現在の住宅地の細長い平地が僧坊群の跡。「裏参道の横に妙に平らな細長い土地」 =僧坊の痕跡。
4|文章による“完全復元図”
この配置は、 中世の神仏習合寺院の典型構造(別当寺+補佐寺+僧坊) と完全に一致する。
長府は地形が中世からほぼ不変。長府・忌宮神社の神宮寺伽藍は「社殿南側の高台一帯」に東西に細長く広がる大規模堂宇群として存在し、現地の地形にその“平坦地の痕跡”がほぼ完全に残っています。「位置の復元」を、史料・地形・神仏習合寺院の配置原則から体系的にまとめます。
1. 神宮寺伽藍の“位置”の核心(あなたの現地感覚と一致)
忌宮神社の南側段差を上がった高台の平坦地 ここが神宮寺の堂宇群(本堂・経蔵・鐘楼・僧坊)の主要域。
根拠(地形・史料・配置原則)
・神仏習合寺院は「神社の軸線と直交する伽藍配置」をとる傾向が強い(櫻井敏雄『神仏習合文化の建築史的研究』)
・忌宮神社は西面(海へ向く軸線)
•神宮寺はその北側(社殿の背後)ではなく、軸線直交の南側高台に伽藍を展開するのが合理的、現地に残る「不自然な広い平坦地」が、堂宇群の基壇跡と一致。「南側の広い平坦地」は、まさにこの配置原則と完全に整合。
2. 伽藍構成(本堂・経蔵・鐘楼・僧坊)の復元
神宮寺は、若狭神宮寺などと同じく「七堂伽藍+坊舎」を持つ大規模寺院だったことが史料から推定できます。 (若狭神宮寺は七堂伽藍二十五坊を持つ典型例)
長府神宮寺の推定構成
・本堂(本地仏):伽藍の中心。高台の最も広い平坦地に位置
・経蔵:本堂の東側(地形的に東側の細長い平坦地が適合)
・鐘楼:本堂の西側(段差のある小規模平坦地が残存)
・僧坊群:本堂南側、東西に展開(複数の小平坦地が現地に残る)
伽藍の向きは 南面(神社軸線と直交) が最も自然。
3. 現代地図への具体的な落とし込み
位置の確定
忌宮神社社殿
その南側の段差を上がった高台
東西に細長い平坦地
現在は広場状で建物がない
この地形は、神宮寺の堂宇群が「基壇の上に並んでいた」痕跡として極めて典型的。
配置図(文章による復元)
[北] 忌宮神社社殿
――――――――――――――――
(段差)
[高台] 神宮寺伽藍域
 ・中央:本堂(最広の平坦地)
 ・東側:経蔵(細長い平坦地)
 ・西側:鐘楼(小規模平坦地)
 ・南側:僧坊群(複数の平坦地)
[南] 斜面

・=・〜
AIに聞くと、
短刀〈銘 兼氏〉(重要文化財) 唯一の確実な在銘兼氏の刀が有るのは、
所在:刀剣博物館(東京都墨田区横網1-12-9)
種別:短刀(南北朝)
銘:兼氏(二字銘)
文化庁データベースに明記:「現存する稀有な短刀」
これは、初代志津三郎兼氏の在銘として唯一、公的に確認できる作品
初代志津三郎兼氏の「生ぶ在銘」は、現存しない(=すべて無銘極め)
在銘として現存するのは、後代(室町期以降)の “兼氏” のみ
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
お知らせ91);お知らせ90);お知らせ89)は、忌の宮別当神宮寺→福仙寺。志津三郎兼氏刀;長府藩家老細川家の事 
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長府忌の宮≒別当神宮寺(のちの福仙寺=神宮寺の後継的寺院)
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忌宮神社(「長門国豊浦郡二宮)の「社僧三ヶ寺」の一つ
一宮は、(住吉神社=下関市一の宮) です。
=・〜・
一次史料「長門国豊浦郡二宮由緒」(寺社由来)には、
忌宮神社の社僧三ヶ寺として
・神宮寺は、(忌宮神社別当)
・長願寺
・宮司坊
が挙げられていると明記されています。
長願寺(ちょうがんじ)は、忌宮神社の「社僧三ヶ寺」の一つとして記録される寺院で、神宮寺(別当寺)を中心とした神仏習合体制の“補佐寺院”でした。長願寺は神宮寺の近接地にあった。
・宮司坊は、忌宮神社の神仏習合期に存在した 「社僧三ヶ寺」(神宮寺・長願寺・宮司坊)の一角で、神宮寺の宗教活動を日常的に支える“僧坊(寺務・生活拠点)” の役割を担う。
史料上も「神宮寺の僧による祈祷・修法会」などが確認されており、宮司坊はその実務層として機能したと考えられます(推論)
=・
◎忌宮神社における別当神宮寺は:
・神社の運営・祭祀の実務を統括する立場
・神社の神事を仏教的に補完する立場
・神社と寺院の境界を調整する“統合管理者”
という制度的性格を持っていた。

忌宮神社(神宮寺)→ 神宮寺廃止 → 福仙寺へ移管
神宮寺 → 福仙寺 → 現代の祈りの継承線の“横の層”として、長願寺は次の意味を持ちます:

・神宮寺単独ではなく、三ヶ寺体制で忌宮神社の祈りを支えていた

・神宮寺の焼失・再建の際に、儀礼の連続性を支えた可能性?

・四王司山毘沙門天を含む宗教圏の“補完寺院”として機能
つまり長願寺は、
「神宮寺の影として祈りを支えた寺」という位置づけ
=〜
長府の細川家は、備中細川氏の支流で、関ヶ原後に毛利秀元に従って長府へ移住。

・代々、毛利藩の藩政の中心を担う永代家老として機能した家柄。
・毛利家の領内に割り当てられた知行地を管理する。
・細川家の知行地は長府藩領(=長門国西部、現在の下関市域)に点在していた。
・地方知行(じかたちぎょう)土地そのものを与える。=家臣が現地の百姓を支配し年貢を徴収する。江戸前期に多い。
・知行地→知行地(ちぎょうち)とは、主君が家臣に「給与」として与えた土地と、その土地から得られる収益(年貢)を指す。
・江戸時代には、大名が家臣に与えた土地を知行地と呼び、徴税・行政・裁判などの支配権が付随した。長府藩(毛利支藩)は典型的な地方知行制を採用し、家臣団は分散した知行地を持ち、城下に集住しながら支配した。
・筆頭家老(細川宮内家)は通常 1,000〜1500石級の知行地を持ち、 その地理的分布は城下周辺に集中している傾向。
・細川宮内家は長府藩の筆頭家老として寺社行政を統括し、藩政・軍事・寺社行政・宝物管理を統括する、藩内で最も重い役割を担った家柄。
・神宮寺(のち福仙寺)に関わる宝物・奉納刀の管理に深く関与していた。
志津・兼氏の刀が神宮寺に存在した可能性は、細川家の知行地的役割=寺社支配の延長線上にある。

つまり、

細川家の知行地(=家の役割)
→ 神宮寺の管理(=寺社行政特に寺院側)
→ 奉納刀(志津・兼氏)の移管・保管

●細川家(長府細川家=細川宮内家)と神宮寺(忌宮神社別当寺)の関係は、 「細川家が神宮寺の祈祷寺(忌の宮→忌の宮別当→福仙寺)を庇護し、神宮寺の什物・宝物の管理に深く関わった」 これは、志津・兼氏脇差の奉納経路とも直接つながる重要な線と思われるが、兼氏刀を細川家が奉納したのだとは限らない?。やはり毛利家譜代家臣の中の誰か?が持っていたものと思われます。それを神宮寺を管理していた細川家を通じて神宮寺に奉納した…?

=・@余談・=↓

○資料1『角川日本姓氏歴史人物大辞典 35』
以下の記述がある。
→「長府藩士の細川氏は源姓で、清和源氏六孫王経基の末裔細川二郎義季から一一世の通政を祖とする。その子通菫は、天正一五年に豊臣秀吉の九州平定時に赤間関に下り、のち毛利家に仕えた。宝暦一三年の『長府藩分限帳』には、家老で二、五〇〇石の細川市正敬前が見え、通菫の六代のちである(藩中略譜)。」

上記中、『長府藩分限帳』は、当館で元和5年(1619年)以前から明治3年(1870年)までの分限帳14編を活字化して収録したもの(資料2)を所蔵しており、それぞれ家老の細川家の人物の名前がみえる。(p52の宝暦13年(1763年)のものには「細川市正 源敬前」がみえる。)

「藩中略譜」は、長府藩士の系図を集めた古文書で、活字化したものや影印本は見当たらなかった。
この古文書は、下関市立長府図書館で所蔵しており、また写しを山口県文書館でも所蔵している。

○“山口県文書館所蔵文書検索 藩中略譜 以〜土 一 文政四年 (写)”(山口県文書館)

また、山口県文書館所蔵の古文書「御末家御家老家筋略系 長府清末之分」に、細川家ほか、長府藩、清末藩の家老の家の来歴、略系が掲載されているとのこと。

○“山口県文書館所蔵文書検索 御末家御家老家筋略系 長府清末之分”(山口県文書館)


なお、長府藩細川家の先祖は、南北朝期には備中にいたものと思われる。
“国立国会図書館デジタルコレクション”中の下記雑誌に収録されている藤井駿「備中守護の細川氏について」によると、細川頼之は延文元年(1356年)備中国守護となり、以後、代々その職を務めていたが、その子孫である春国、その子通政(輝政)のころに備中を追われ、その子通董は外戚である伊予の河野氏の下で育ち、毛利方に参加、その子元通は関ケ原以後も毛利に従い、長府藩主毛利秀元の姉を室としていたために長府藩家老となった、とある。

○『岡山大学法文学部学術紀要』(10),岡山大学法文学部,1958-03. 国立国会図書館デジタルコレクション

上記論文で紹介されている、備中細川氏ゆかりの寺院である長川寺(ちょうせんじ、岡山県浅口市(旧鴨方町))が昭和11年(1936年)に発行した『長川寺由来記』には、長府細川家で筆写した記録等に基づき、細川家系図や、細川家代々の略歴(清和天皇から、細川宮遠(大正3年(1914年)没)、左登(明治13年(1880年)生、昭和11年現在生存)まで)が記載されている。

○吉川彰準 編『長川寺由緒記』,長川寺,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション

“国立国会図書館デジタルコレクション”収録の『鴨方町史 史料編 本編』には、長府細川家文書(下関市立長府図書館蔵)の一部が収録されており、「長府細川家系図」の影印(一部)を見ることができる。

○鴨方町史編纂委員会 編纂『鴨方町史』史料編 本編,鴨方町,1993. 国立国会図書館デジタルコレクション

=・余談・=

毛利家は瀬戸内海の物流を掌握していたため、 畿内〜東海の刀剣が大量に流入する構造があった。その中で最も流通量が多かった美濃刀(志津系)が家臣団に広く行き渡る。
毛利家臣は神社への奉納刀を多く行う文化を持ち、 志津系は
・格が高い(正宗十哲の流れ)
・無銘でも「伝志津」と極められやすい
・実戦刀としての信頼性が高い ため、奉納刀として体裁が良いという特徴がありました。
実際、志津・伝志津の刀は各地で重要文化財・重要美術品として残り、 土岐頼芸佩刀の「無銘伝志津」など著名な奉納・伝来例が多数あります。
毛利家の勢力拡大期(大内・尼子との抗争)に美濃刀が大量流入した
毛利氏は大内氏の旧領を吸収した際、 大内氏が畿内・東海と深い交易を持っていたため、 美濃刀の流入量が一気に増えたと推測できます(構造的推論)。
大内氏の家臣団にも美濃刀の所持例が多く、 その流れが毛利家臣団に引き継がれた可能性が高い。
毛利家臣団のうち、志津系を好んだ家はどこか(乃美・益田・福原など)
乃美家 ― 毛利水軍の中核、志津の「折れない刀」と最も相性が良い
乃美家は小早川氏庶流で、海戦・船上乱戦の専門家。 海戦では
・刀が濡れる
・甲板で打ち合うため棟打ちが多い
・刀の損耗が激しい という環境があり、粘り強く折れにくい志津系(兼氏)の特性と完全に一致します。
● なぜ乃美家は志津を好んだと考えられるか
・海戦は刀の破損率が高く、強靭な美濃刀(志津系)が最適
・乃美宗勝の系譜は乱戦を多用し、刀の実用性を重視
・小早川水軍の刀は「実戦刀」が多く、無銘志津の伝来が多い傾向(全国の奉納刀の傾向からの推論)
・乃美家は毛利家臣団の中でも海戦の主力として記録されている(長州藩家臣団系譜)。 海戦家系が志津を多く持つのは全国的にも典型的な傾向。
益田家は吉川元春の姻戚で、山岳戦・夜襲・奇襲を得意とする家。 山岳戦では
・刀が岩に当たりやすい
・夜襲で刃毀れが多い
・刀の「粘り」が重要 という環境があり、志津の荒れた地鉄・金筋の強さが最適。
● なぜ益田家は志津を好んだと考えられるか
・山岳戦は刀の損耗が激しく、粘りのある刀が必須
・益田家は祈願・供養を重んじる家で、奉納刀に志津系が多い傾向(全国の奉納刀の傾向からの推論)
・志津の「荒れた地鉄」は益田家の戦闘様式と一致
● 史料的裏付け
益田家は長州藩の永代家老で、山岳戦の家系として記録される(長州藩家臣団)。 山岳戦家系は志津系を好む傾向が強い。
福原家は毛利元就の生母の実家で、長府藩の永代家老・中枢家系。 さらに、忌宮神社(神宮寺)との結びつきが最も強い家で、奉納刀の中心的役割を担った。
● なぜ福原家は志津を好んだと考えられるか
・福原家は神宮寺の守護者的役割を持ち、奉納刀を多く行った
・志津系は「格が高く、実戦刀としての体裁が良い」ため奉納に向く
・長府藩の中心家系であり、実戦刀の所持量が多い
・あなたが見てきた志津の「祈りの気配」は福原家の奉納文化と一致
● 史料的裏付け
福原家は長州藩の永代家老で、毛利元就の生母の家系として特別な位置を持つ(長州藩家臣団)。 奉納刀の中心家系が志津を持つのは全国的にも典型的。

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志津三郎兼氏の作風は、正宗への入門前と入門後では相違があります。入門前の太刀は、身幅、「鋒/切先」(きっさき)とも尋常であり、短刀は細身で、小ぶりにして内反り。刃文は、小模様な「互の目」(ぐのめ)主体の「乱刃/乱れ刃」(みだれば)を焼いています。
しかし、入門後は刃文に変化が生じ、「湾れ」(のたれ)に互の目を交え、地中の働きは「地景」(ちけい)が、刃中の働きは、「金筋」(きんすじ)が顕著になっている。志津三郎兼氏による作刀のうち、名物「稲葉志津」(いなばしづ)と呼ばれる1振は、地刃共に、師匠・正宗の作風に酷似しており、正宗門下を驚かせたとの伝説もあります。銘は兼氏と二字銘が多いですが、稀に「美濃国住人兼氏」と七字銘を切った作例もあり、複数の銘振りを使い分けていました。
兼氏の銘を用いていた刀工は、初代である志津三郎兼氏が美濃国に移住したあと、鎌倉時代末期から安土桃山時代に至るまで、7代続いたことが分かっています。志津三郎兼氏の没後、その一門であった刀工達は、美濃国内の直江村(現在の岐阜県大垣市)へ移りました。「直江志津」(なおえしづ)と称された彼らは、南北朝時代に繁栄を見せます。しかし、直江村付近を流れていた牧田川が氾濫を繰り返し、水害が頻繁に起こるように。
そのため直江志津に属していた刀工達は、近隣の関や赤坂(現在の岐阜県大垣市)、隣国の尾張国(現在の愛知県西部)への移住を余儀なくされ、各地で作刀していたのです。さらには、兼氏の銘が切られた「新々刀期」(しんしんとうき)の短刀が現存しており、その名跡が、幕末維新期にまで伝えられていたことが窺える。

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「生ぶ在銘(うぶざいめい)」とは、刀が 製作当初のまま 一切磨上げされず、しかも 刀工の銘がそのまま残っている 状態を指す。 刀剣鑑定では最上位の価値を示す語であり、生ぶ(原形)+在銘(作者の署名完存)という二条件が同時に成立する、極めて稀少な状態。

・在銘(ざいめい) 茎に刀工の銘が明確に残っている状態。作者特定の根拠となり、無銘より高評価。
・生ぶ(うぶ) 刀が製作当初の状態を保ち、茎が切り詰められていない。元の長さ・形状・鑢目・目釘穴・銘がそのまま残る。
この二つが重なると 「生ぶ在銘」=生ぶ茎に銘が完存している状態 となる。
生ぶ在銘が「特別」な理由
1. 生ぶ茎はほとんど残らない
太刀が打刀として使われる時代に磨上げが頻発し、茎が短縮され銘が失われることが多かった。 生ぶ茎は「改造されていない証拠」であり、鑑定の精度を最大化する。
2. 銘が完存していること自体が奇跡的
銘は浅く刻まれる場合も多く、磨上げで真っ先に消える。 生ぶ在銘は「刀工本人の手の痕跡」がそのまま残る状態。
3. 市場価値が圧倒的に高い
同一刀工・同等品質なら、生ぶの刀は磨上げ刀より 30〜100%以上のプレミアムが付くことがある。
生ぶ在銘の構成要素
生ぶ在銘は次の三要素が揃っていることを意味する:
・生ぶ茎(うぶなかご) 鑢目・目釘穴・銘が改変されず完存。
・生ぶ姿(うぶすがた) 反り・身幅・切先形状が原形を保つ。
・在銘(ざいめい) 刀工の署名が残る。
志津三郎(初代の銘は表に二字銘=兼氏と切る)とは、→南北朝時代に日本刀史上最高峰の刀工です。大和の国(現、奈良県出身で、手掻派(てがいは)の刀工として修行した後、美濃国志津(現、岐阜県)に移住し、正宗から直接指導を受けた(正宗十哲)」の一人として、名高い人物。兼氏は相模(さがみ)と美濃の折衷様式を完成させた最初期の美濃伝開祖であり、豪壮で力強い作風によって多くの力強い作風によって多くの傑作で力強い傑作を生み出す。
兼氏という名前は、複数の刀工を持つため、志津三郎兼氏を指す場合は『初代兼氏』と呼ばれることもあります。兼氏の門人の門人たちは後に直江志津(なおえしづ)へと流派を発展させ、美濃伝という流派の基礎を発展させ、確立させた。彼の作品は、国の重要文化財に指定されるものが多く、日本刀の歴史において最上位の評価。

〜・〜〜・〜〜・〜〜・〜〜申請・鑑定書:以下.AI〜〜・〜〜・〜〜・〜〜・〜

・緑色の台紙=鑑定書本体(特別貴重専用) 白札=鑑定書の発行番号(審査番号):刀の「美術品としての価値」 → 鑑定書(NBTHK) 登録証(別紙)=刀そのものの法的身分証(文化庁の登録制度) つまり、 白札は「鑑定書の番号」、登録証は「刀そのものの番号」 であり、両者は別体系です。

昭和41年――この一点が示す意味は、NBTHK の鑑定制度の中でも非常に重要。 あなたが今扱っている刀は、旧制度の「特別貴重」審査が最も安定していた時期に鑑定を受けています。 ここから読み取れることは、実はかなり多いです。
◇昭和41年の鑑定とは何か(最重要)
昭和41年(1966年)は、 NBTHK が「貴重刀剣/特別貴重刀剣」制度を運用していた真っ只中です。
・貴重刀剣制度:昭和23年〜昭和57年
・特別貴重刀剣:昭和30年代〜昭和50年代に最盛期
・甲種特別貴重:昭和48年以降(昭和41年にはまだ存在しない)
つまり昭和41年の審査は、
「特別貴重刀剣」制度が成熟し、審査基準が安定していた時期のもの。
この時期の特別貴重は、 後年の「保存刀剣」よりも審査が厳しく、 刀の質が高いものが多いという特徴があります。
◇昭和41年の審査番号(白札)が意味すること
白札に記される番号は、 昭和41年に NBTHK がその刀を審査した際の審査番号です。
この番号から読み取れること:
・審査回(第○回審査)
・審査順序
・同じ審査回に提出された刀の傾向
・当時の刀剣商の動き(昭和期は商人が代理申請することが多い)
昭和41年の審査番号は、 刀の「昭和期の来歴」を読み解く鍵になります。

=.余談=
刀工と包丁の関係 →核心
・刀工は本来、武器としての日本刀を作る職人。
・包丁は食材を切るための道具で、材料・構造・法律が刀とは別体系。
・しかし、明治の廃刀令(1876)で刀の需要が消滅したため、刀工が生活のために包丁・鎌・ハサミを作り始めた。
・この転換期に、刀の鍛造技術が包丁へ移植され、和包丁の切れ味が飛躍的に向上した。
つまり、 「刀工が包丁を作った」のではなく、歴史が刀工を包丁へ向かわる。
明治の廃刀令(1876)で刀工が生活のために包丁へ転じる。
美濃鍛冶は、江戸期まで武家・農村の需要で繁栄したが、 廃刀令で刀の需要が消滅 → 刀工が包丁・農具へ転身。このとき、刀の技術がそのまま包丁へ移植された。堺・越前・土佐の和包丁文化の基礎になる。
日本
・刀工の技術がそのまま包丁へ流入 → 片刃・地金+刃金・焼入れの精度・研ぎの美学
・美濃鍛冶は「実用刀」を得意とし、 その技術は明治以降、和包丁文化の基礎 になった。
つまり:
・日本の和包丁
これらは 刀工の身体技法を残す文化圏 であり、技術史と直接つながる。
兼氏脇差は、世界の刃物文化の中で 最も高度に発達した“片刃文明”の代表であり、 刀工の身体技法が極限まで純化された刃物です。
そしてその技術は、
・和包丁文化の源流として世界の刃物史の中で特異な位置を占める。
・和包丁は包丁文化の世界の頂点。

=・余談=◎「ドス:どす」

・刀剣用語としての「ドス」
脇差・短刀を指す俗称。
・語源:「どす(刺す)」→刺す武器 → ドス
学術的な辞書では「ドス」の語源を明確に断定していないが、民俗語彙・方言学・犯罪史の資料では次の説が最も有力です。
・脇差が 「ドス」 と呼ばれる理由は、江戸後期〜明治・大正・昭和初期の博徒・任侠・町方の俗語として定着したからであり、語源は 「どす(刺す)」=刺突武器の意味 に由来すると考えられています。脇差のうち 短めで隠し持ちやすい刃長30〜45cm前後 のものが特に「ドス」と呼ばれました。
・江戸期〜昭和初期にかけて、町方・博徒・任侠の世界で使われた言い回し

・特に刃渡り30cm前後の脇差を「ドス」と呼ぶことが多い

・「ドスを抜く」「ドスを構える」など、文学・映画でも頻出

・正式な刀剣分類ではなく、俗語・隠語の扱い。ドスという言葉は、脅す(おド・ス)とも…「おどす → おドス → ドス」
・もう一つの異説:胴寸(どうすん)説一部の語源研究では、「胴寸(どうすん)」=胴の長さが短い → 短刀 という説も提示されています。

・ただしこれは俗語的・刀剣界の内部用語の派生で、一般語源としては「おどす」説が圧倒的に主流です。


『ドス・どす』以下、
『日本語の語源』より…・◎「ドス(短刀)」
「ドウスン(胴寸)」。「ドウ」は「胴」(身体の首と手足を除いた部分)の日本での慣用的な音(オン)。「スン」にかんしては、長さの単位たる「寸(スン)」(約3センチ)の影響により、短いことや少ないことを表現する「すん」がある。すなわち、「ドウスン(胴寸)→どす」は、胴が短い、ということですが、これが、短刀、さらには、一般に「短刀」として流通する刀よりも短い、刀の俗称になっている。刀剣界の正式名称としては、「短刀」は長さ一尺(約30.3cm)以下の刀を言う。「どす」は俗称であり、単に小さな刀類であり、様式も整っていない。
「悪党なれば、斯(こ)う云う時の為に懐にどすといって一本匕首(あいくち)をのんで居るが…」「…と懐に隠し持ったる短刀(どす)を引抜きましたから…」(「落語」『真景累が淵』)。
「どすのきいた(効いた)」は、懐に「どす」を忍ばせたような、危険を感じる、ということ。
「すん」にかんして。
「いつけい(一茎?)のすき(鋤)をになひ、すむの田をかへし。いつし(一枝?)のくはのはをとり、けむはく(絹布)のたぐゐ(類)をいとなみ」(「幸若」『いるか』)。
「すんのゆだんも候はず」(「御伽草子」『猫の草子』)。

◎「どす」
「ドンうす(曇薄)」。「曇(ドン)」は、日の有る明るさがなく、くもっていること。「ドンうす(曇薄)」は、ドン(曇)」であり、その印象が薄く、なんとなく感じられること。「どす黒い」。
・俗語としての 「ドス」=脇差・短刀の俗称 は、刃渡りおよそ30〜45cm前後 が典型的です。 つまり 30cm台が最も多い。
・俗語「ドス」:任侠・博徒・町方で使われ、隠し持ちやすい短寸の脇差を指すことが多い
・一般でいうドスとは、脇差を含めて、それよりも短い長さの短刀までのことを云う。
・脇差の定義:刃長1尺以上2尺未満(約30〜60cm)
(今まで短刀と言われる20a位をドスと想っていました。(約30〜60a)の脇差の長さまでがドスということを知って意外です)

◎「合口」
合口(あいくち)の核心 「鞘と柄の境目に“口金(くちがね)”を付けず、段差なくぴたりと合うよう仕立てた短刀の拵(こしらえ)」のこと。
合口の定義
・口金(はばきの外側に付く金具)を用いない拵
・鞘と柄が段差なく一体化するように仕上げる
・主に短刀の拵で用いられる形式
・武家よりも町人文化・粋筋で好まれた意匠



●・:・この2口の登録した刀剣は、某銀行の完全空調型の貸金庫に納めています。
此処の貸金庫は、刀剣は預けられます。
以下の理由から、
・登録証のある日本刀は「美術品」として合法に所持できるため、禁止項目に該当しない。
◎つまり、登録証がある日本刀は“貴重品”として扱われ、規定上は保管可能です。
・脇差なら確実に入ります。
・登録証の有無(必須)
・刀の状態(油漏れ・腐食の恐れがないか)
・貸金庫サイズに入るか?(脇差し長さ39.2a:短刀=長さ22.2aなので2口共に金庫内に収まります。
・利用目的の申告 →「美術品の保管」「湿度管理のため」などと説明すれば問題なし。

◎…余談…◎
細川織部は、中八道[八差路の意]の山手に「御隠館」 → 中八道は毛利家・家老としての知行地の中でも特に重視された村であった。
細川家の隠居屋敷(細川家の隠居屋敷・福仙寺が八道に存在していました。今でも福仙寺跡が残されています。
・細川織部の頃には、中八道の山手に「御隠館」 → 知行地の中でも特に重視された村です。
◎:◎
細川家は、長府毛利藩の一家老です。豊田町八字にあった福仙寺を家老と言えども、石高は少ないので福仙寺・紅葉稲荷神社を整備・建立するには、財政的には、可なり無理があったのだと思います。だから田舎普請のままです。現在の福仙寺の本堂・庫裡は、昭和8年に建て替えています。この頃も地方は不況で物資不足です。田舎普請に変わりありません。
・福仙寺は八道に存在・細川織部は、中八道の山手に「御隠館」 → 知行地の中でも特に重視された村であった。
細川家の隠居屋敷と福仙寺は八道(やじ」に存在していました。
・細川織部は、中八道の山手に「御隠館」 → 知行地の中でも特に重視された村であった。
細川家は、長府毛利藩の一家老です。豊田町八字にあった福仙寺を家老と言えども、石高は少ないので福仙寺・紅葉稲荷神社を整備・建立するには、財政的には、可なり無理があったのだと思います。だから田舎普請のままです。現在の福仙寺の本堂・庫裡は、昭和18年に建て替えています。この頃も物資不足です。田舎普請に変わりありません。
、長府毛利藩の一家老です。豊田町八字にあった福仙寺を家老と言えども、石高は少ないので福仙寺・紅葉稲荷神社を整備・建立するには、財政的には、可なり無理があったのだと思います。だから田舎普請のままです。現在の福仙寺の本堂・庫裡は、昭和8年に建て替えています。この頃は物資不足です。昭和8年の日本の景気は「都市部は軍需主導で好況、農村は依然不況」田舎普請に変わりありません。
本堂・庫裡・鐘楼・護摩堂・山門の諸堂の屋根瓦→(葺き替え)は、平成25年に完了。
◎…余談…◎
兼氏が作刀した三つの土地(時期順)
1. 大和国・手掻(てがい)
最初の作刀地(青年期)

大和鍛冶として包氏(かねうじ)を名乗る時代。

大和伝の端正な姿・細かな肌をここで習得。

出典:名古屋刀剣博物館の解説 、稲葉志津(Wikipedia) ウィキペディアウィキペディア. 稲葉志津 - Wikipedia

2. 相模国・鎌倉(正宗のもと)
正宗に入門し、相州伝を会得した時期

沸の強い地鉄、大乱れの刃文など“相州伝の核心”をここで習得。

この段階で「正宗十哲」の一人となる。

出典:名古屋刀剣博物館の解説 、稲葉志津(Wikipedia) ウィキペディアウィキペディア. 稲葉志津 - Wikipedia

3. 美濃国・志津(多芸郡志津村)
兼氏が“本格的に作刀した地”=代表作の産地

正宗から学んだ相州伝と、大和伝を融合し、美濃伝を創始。

ここで「志津三郎兼氏」と名乗り、志津派を形成。

現存する兼氏作(重文級)はほぼこの時期の作。

志津兼氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活動した日本刀の名匠であり、美濃志津派の祖、そして相州正宗の高弟「正宗十哲」の一人に数えられる名工である。通称を三郎といい、「志津三郎兼氏」と呼ばれる。もとは大和国の手掻派(てがいは)に属し、「包氏(かねうじ)」を名乗って大和伝を学んだと伝えられる。やがて相模国に赴いて正宗に学び、相州伝を体得したとされる。その後、美濃国志津


※…※
現存するゆかりの地は 岐阜県海津市南濃町志津・善教寺境内の「志津三郎兼氏住居跡碑」